義父の様子、人が亡くなるということ

ついに黄疸が出てきたそうです。
食事もまだ摂れていないわけだし……もう2週間ほど点滴だけ?
それでもまだ自力でトイレに行くそうです。
病室の真正面がちょうどトイレで、まぁそれだけでも歩けるということでほっとしたわけですが。


先日『お迎え』の夢を見たそうです。
義父の親友サンが今年亡くなっているわけですが、その方がね、ピカピカの車で「あっちに綺麗なところがあるから一緒に行こう」と迎えに来たと。
本当にそういう夢って見るんだねぇ…と夫と話しました。


土曜日から月曜日まで、夫の実家に2泊3日で行ってきます。
親戚が集まって、お葬式に向けて大掃除をするそうな。
うちは長男なので、やっぱり行かなきゃマズイでしょ、と。
本人まだ闘病中なのにお葬式の準備って……すごく変な感じ。
みんな悲しくないわけではないけれど、現実問題なわけで。


私も先日黒いエプロンや黒いストッキングを買ってきました。
近いうちに黒い靴も買ってこなくちゃ。
本当にお葬式の準備って変な感じです。


2年前だったかな、義父の母(夫のおばーちゃん)が亡くなったんですが。
で、もうダンナさん(夫のおじーちゃん)は何十年も前に鬼籍の人になっているわけですが。
「やっと連れ合いと一緒になれて良かったね」と言う人がいたのですよ、お葬式中に。
私には分からない。
人が亡くなって「良かった」という言葉は絶対言えない。
――と夫に言いましたら、「まだ人生経験が浅いね」と言われました。
……そうなの?
だって、私の祖父は数年前に亡くなっていますが、それで次は祖母が亡くなったとしても「おじーちゃんのところに逝けて良かったね」とは絶対言えないし、他の人からも言われたくない。
人が亡くなるのは悲しいし、それが自分の知人や大好きな身内だったら尚更です。
……こんな私はまだ「青い」のでしょうか。

「人が亡くなる」という認識

が、私は出来ないようです。欠陥なの。
夫のおばーちゃんにしても「今頃畑かな……あ、もういないんだっけ」、自分の祖父にしても「次に会ったらまた五目並べしよっかな……あ、もういないんだっけ」。
この「いない」は、「目の前にいない」「すぐ会える距離にいない」です。
「この世にいない」ということが感覚的に理解できないのね。
社会人1年生のときに同期の友人が亡くなったのですが、「永遠にいなくなった」ということが未だに理解できていません。
ちゃんとお焼香してお墓参りにも行ったんだけど、やっぱり亡くなったということが理解できない。
友人や夫からは「それって危ないんじゃない?」と言われましたが……自分でもちょっとマズイとは思いますが。
「亡くなった」ということが自分の中に消化できません。
だから、心の底から悲しむことが出来ないわけです。
お葬式で泣いたりしても、それは「悲しい」という雰囲気で泣くわけで、本当にその人が亡くなったことを悲しむということが出来ないわけで。
……やっぱりどこかがおかしいんだろうなぁ。


今回、義父の最期が近付いていますが、やっぱり淡々としている自分がいる。
永遠の別れになることを理解できず、それよりもお葬式を乗り切ることや、その後のことを考えている自分に気付いて愕然とする。
確実に弱っていく義父を見ながらも、それが「死」に結びつかない。
というより、私は未だ「死」を理解していない。
会えない期間が長くなるだけで、それが何を意味するのかが分からない。
だから、「死」を意識している夫や親戚に対して不用意な言葉を掛けないように、必要以上に神経を張り、不自然に見せないようにと普通を装い、こんな自分を冷たい人間だと思われているんだろうな…と考えて、もしかしたら本当に冷たいのかもしれないと思い、またそんな自分を冷静に見ている自分もいて……。


週末に大掃除に集まる親戚たちにどういう対応をしたらいいんだろう。
また無口になるんだろうな。
だって何をどう喋ったらいいのか分からない。